「隠れ発達障がい」だった母の生涯を本に「のえの声、永遠に響き続けます」生きづらさを娘が歌う

凸凹村管理人

2008年、37歳でこの世を去ったシンガー・ソングライター、のえ。彼女は命の終わりを告げる直前に、発達障がいと診断されました。

その息子を持つ母、詩人のあする恵子さん(72)は、娘の軌跡を辿り、10年の歳月をかけて彼女の生涯を本にまとめました。

500ページを超えるノンフィクション

「月よわたしを唄わせて “かくれ発達障がい”と共に37年を駆け抜けた『うたうたい のえ』の生と死」。そのタイトルには、のえの生と死、彼女が抱えた発達障がいと向き合いながら生き抜いた37年間が込められています。

500ページを超えるそのノンフィクションは、のえが最期に大量の処方薬を摂取した日から始まります。あするさんは、冷徹なまでにその日を描き、彼女の人生を再構築するために書き記しました。

亡くなるわずか2カ月前に自閉スペクトラム症と診断

のえは東京で生まれ、北陸の山あいで育ちました。彼女は中学を卒業し、上京後に路上での弾き語りを始めました。その独特の歌声は、聴衆を惹きつけましたが、人間関係に悩み、家族との疎遠も経験しました。

そして、亡くなるわずか2カ月前に自閉スペクトラム症と診断されました。その後、うつ病やアルコール依存症といった二次障がいに苦しんだのです。

晩年、のえは関西に拠点を移し、大阪市の長居公園にあるテント村を訪れました。そこで彼女は自然と共にあり、自分自身であることを感じました。しかし、その居場所は07年2月に強制撤去され、のえの心の支えは奪われました。

障がいへの理解の不足を浮き彫りに

「空気なんて読めない 読まないんでなくて 読めないのよ」「できればみんなとおんなじになりたかったんだ でもがんばればがんばるほどに息ができないよ」――最後の曲「KYソング ひらきなおりの唄」は、のえが協調性を求められる社会に追い詰められていた姿を描きます。

あするさんは、のえの生涯における適切な医療や福祉の支援の欠如について綴り、障がいへの理解の不足を浮き彫りにしました。

「ようやく今、太陽を堂々と見られる」。その言葉には、娘の尊厳と生きた証しを刻むあするさんの強い覚悟と愛情がにじんでいました。

そして、16日、のえの記憶をたどるライブが吉祥寺で開かれます。その場所で、のえの声は永遠に響き続けるでしょう。

「大切な記憶をたどる」

吉祥寺のライブハウス曼荼羅(まんだら)が、のえさんの思い出に満ちた1990年代の舞台として、16日の特別なライブに彩られます。

このライブでは、のえさんの音源や映像が流れ、あするさんの朗読が行われ、音楽仲間たちによる演奏が繰り広げられます。また、のえさんと親交のあった韓国文学翻訳者の斎藤真理子さん、そして7歳のときに母を失った作家末井昭さんとの鼎談も予定されています。

「見せなければ伝わらない当事者性がある」

自死というテーマは、一般的にはタブーとされがちですが、あするさんは「見せなければ伝わらない当事者性がある」と述べます。彼女の考えは、自身の生き方とも密接に結びついています。

のえさんが生まれた後、ある日、伴侶となる岩国英子さん(76)との出会いがありました。77年に北陸に移住し、「ベロ亭」と名付けられた家で、のえさんを含む5人の子どもたちを共に育てました。既存の家族とどんなに違おうと試行錯誤しながら肯定し、分かりにくい当事者性を懸命に伝えて生きてきたのです。

「希望と共に前を向くきっかけになれば」

岩国さんもまた、「大切な人を亡くして自責の念で苦しんでいる人の視点がほんの少しでも変わり、希望と共に前を向くきっかけになれば」と願っています。

このライブは、のえさんが生きた証しと、彼女の魂が今もなお息づいていることを讃える場となるでしょう。そして、その場に集う人々は、彼女の音楽とメッセージを胸に刻み、心を繋ぎ合わせることでしょう。

関連記事

  • 身体障害者手帳の等級一覧│視覚障がい、聴覚または平衡機能の障がい者手帳の等級による支援サービスの重要性

  • 全盲の柔道家「右手で相手を読む」土屋美奈子選手の挑戦と成長 目指すはパラリンピック・パリ大会