埼玉県在住のHさんは、スラッと背の高い好青年。大学生の頃から販売員のアルバイトをしていたスポーツブランドのショップで働いています。特段、なんの悩みもないように見えますが、長年に渡り苦しんでいることがあります。「僕はなんの病気なのでしょうか。精神科に行っても診断名がつかず、グレーゾーンのまま生きています。」
予兆、息ができない!
思い返せば、それは幼稚園の時に始まっていたのかもしれません。お母さんの記憶をもとに辿ります。
「出産も問題なく、健康な赤ちゃんだったのですが、幼稚園に入って年長の1月くらいに過呼吸発作のような症状が出てきて、心臓がバクバクするとか苦しいとか言うようになりました。当時は過呼吸だと分からなくて、『どうした?どうした?』となだめるしかありませんでした。30分くらいおんぶしたりベランダに出たり、静かなところに連れて行ったりしました。」
Hさんは年長クラスの終わりくらいから幼稚園に行くのがしんどいとか、幼稚園バスの匂いが臭いから乗るのが嫌だとか、何かと理由をつけて「幼稚園に行きたくない」と言うようになりました。卒園式や小学校の入学式も親の席から離れられず、お母さんは困ってしまいました。
1日に3、4回発作を起こすように
小学校入学を前にした3月、Hさんは1日に3、4回発作を起こすようになりました。心配になったお母さんは、Hさんを連れて最寄りの小児科に行き、埼玉県の大きな病院の精神科を紹介され受診したそうです。
「過呼吸の薬が出たこともあり、たまに飲ませました。でも、いろんなことをやって落ち着くのなら飲まなくてもいいと思いました。いざとなったらこれを飲めばいい、薬は、それで病気を治すというより本人のお守りのように持っていた感じです。はっきりした病名も分からないまま薬を飲ませる意義が分かりませんでした。」
Hさん本人の診察は最初の1、2回くらいで、その後はお母さんが月に一度主治医と面談しました。他の精神病院も2箇所ほど受診して、カウンセリングも受けたそうです。しかし、これといった進展はなく、そのままやり過ごしたそうです。
このままやり過ごしたい
小学校1年生の時の担任が厳しかったからか、Hさんは授業の途中でも「苦しい」と言って帰ってくるようになりました。学校もそんなHさんを問題視していて、お母さんは学校に呼ばれることもありました。ただ、主治医からは、「学校に行けているのなら、そのまま行かせるように」と言われたと言います。
「2年生になって担任が変わると、学校に行けるようになったので通院もやめました。ただ、折に触れて学校に行きたくないと言って不登校になりました。このまま不登校になってしまうのかなと思ったこともありますが、ギリギリのところで工夫して、なんとか小学校を卒業することができました。」
不思議なことですが、Hさんは小学校の頃は自分で友達と遊びに行く計画を立て、サッカーをしよう!と自ら友達を誘うこともありました。そのため、お母さんはなんとかこのままやり過ごしたいと思いました。
笑顔恐怖症
しかし、お母さんの願いを打ち砕くように、中2くらいから再び症状が強くなりました。ここからはHさんの記憶が鮮明なので、Hさんにお話してもらいます。
「わーっと冷や汗が出たり、発作的に苦しくなったりしました。そういう症状が強くて、それでも私立の第一希望の高校があったので、受験して受かりました。ある程度勉強もできたし、いじめられることもなく、比較的友達も多かったのに、なぜか僕は死にたいとずっと思っていました。何に悩んでいたのか自分でも分かりません。思春期だったのかもしれませんが、“笑顔恐怖症”に苦しんだことは覚えています。クラスメートが面白いことをすると、『笑わなきゃ、どうしよう』とプレッシャーを感じて苦しくなりました。不安と緊張で顔がこわばり、そんな僕を見て向こうも『えっ!?』となってしまう。中二、中三の時は、人に会うとそうしたことが避けられないので、たまらなく嫌でした。」
他人とどう関わっていいのか分からず悩み続けてきたHさんですが、家庭では全く問題がない子どもでした。
「僕は幼い頃から家族に気を遣う子で、反抗期もなければ、親とケンカになったこともありません。父は無駄なことは言わないタイプですが、カッとなる時もありました。父といるとビクビクしていて、怒らせないように顔色を見ながら過ごしていました。幼い頃から我慢したり空気を読んだりしていたことが影響したのでしょうか。」
しかし、Hさんは内向的というわけではなく、中2の時、「服を買いに行く」と、一人で好きなスポーツブランドの店に出かけてパンツを買ってきました。なんとか登校もできるし、欲しいものがあれば一人で買い物にも行く。そうした行動がお母さんを惑わせ、期待も持たせました。