「鳥肌が立つ、確定申告がある。」知的障がいのある息子と歩んだでこぼこ道

凸凹村管理人

知的障がいのある作家と契約してアート作品の企画・商品化を行っている企業「ヘラルボニー」が、2023年1月、東京・千代田区の霞ケ関駅などにポスターを掲載しました。大きく書かれたのは「鳥肌が立つ、確定申告がある。」の文字です。

ヘラルボニー契約作家、小林覚(こばやし さとる)さんにまつわる実話を元に制作されたものです。

音楽と絵が大好きな幼少期──自閉症は「わがままに育てた結果」と思われて…

覚さんは1989年に岩手県で生まれました。歌の歌詞をモチーフにした作品などを発表している覚さん。母親の眞喜子さんによると、幼いころから音楽と絵が大好きだったということです。

母・小林眞喜子さん「少しも落ち着きがなくて、絵を描いているか、ものを食べている時以外は走り回っていました。だから、『ほら描きなさい描きなさい』って、いつも鉛筆やクレヨンを与えていました」

「NHKの『みんなのうた』が大好きで、アルファベットの歌とかを歌いながら描いていました」

『覚とうちの子どもを一緒に学ばせたくない』

多動症と自閉症があると診断され、「今ほど自閉症に対する理解がなかったので、わがままに育てた結果だと思われていて、外に行くのが大変でした」と眞喜子さんは言います。

学校生活でも、周囲の理解が得られず苦労しました。特別支援学級がある小学校は自宅から8キロ離れていたため、覚さんひとりで通えませんでした。そこで、校長先生と相談して近所の小学校に入学し、知的障がいのない子どもと一緒のクラスで過ごすことを選びました。

同級生は7人しかいない地元の小学校。子ども同士、親同士もよく知っている間柄だったので、理解されていると思っていました。しかし、2年生になったとき、思わぬ出来事が起きました。

母・小林眞喜子さん「4月の保護者会で、『覚とうちの子どもを一緒に学ばせたくない』という文句が出ました。保護者が一人ずつ『覚くんは、こういう悪いところがあるから、悪影響だから一緒に学ばせたくない』と。担任の先生が『はい、次の人どうぞ』『はい、次の人どうぞ』ってみんなに言わせて」

「通えないんだなもう…って思って、うちから見える小学校に通うのを諦めました」

「お願いだから普通に書いて」…文字や数字をアレンジする“くせ”が“作品”に

学校が大好きだった覚さん。「学校を休ませるよ」と叱ると「ごめんなさい!」と謝るくらいだったそうです。8キロ先の特別支援学級がある小学校への送り迎えのため、眞喜子さんは運転免許を取りました。

母・小林眞喜子さん「釜石でも1、2を争う厳しい道路を初心者の私が毎日送り迎えしました。覚は元気に通っていましたが、うちの窓から見える小学校を見て『覚くんあの学校に行きたい』って私に言ったことが1回だけありました。『覚はあの学校に通えないんだよ』って時間をかけて話して聞かせて、それ以後は言いませんでした」

しかし、転校は悪いことばかりではありませんでした。小学4年生になったとき、今の覚さんの原点とも言える出会いがあったのです。

母・小林眞喜子さん「覚は1年生の時から夏休みや冬休みの宿題を全くできなくて。なのでスケッチブックに絵日記を描かせて、それを学校に提出していたんですね。それまで先生たちから反応はあんまりなかったんですけれども、4年生の時の先生が褒めてくれて。『楽しい』『素敵だ』『覚くんの優しさとか、何を楽しいって思ったのかわかる』って。『これを続けたほうがいい』って、先生が褒めてくれたんです」

「なんか生まれて初めて褒められたような感じで。すごく嬉しかったです」

「不思議な字だけど、これはアートだ」

先生の言葉を受けて、眞喜子さんは覚さんに毎日絵日記を描かせることにしました。それは高校3年生まで続いたそうです。覚さんのアート作品は、文字や数字をアレンジしたデザインが特徴的ですが、そのスタイルを伸ばせたのも、学校の先生との出会いがあったからでした。

養護学校(当時)に通い、中学2年生になったころ、国語の時間に「こばやし さとる」とひらがなで名前を書く練習をしました。そのとき、なぜか覚さんは「ば」の濁点を4つ打ったのです。父親の小林俊輔さんによると、このころから文字をアレンジして書くことが増えていったそうです。

父・小林俊輔さん「学校から持ち帰ってきたプリントの名前の欄に『小林覚』って漢字で書いてあったんですけれども、その『林』が『木』を“縦に”2つ並べていたんですよ。『困ったもんだな』って思ったのが、私が気づいた漢字のアレンジの始まりでした

母・小林眞喜子さん「それまでは絵も字も上手に普通にかいていたんです。それが絵は人を描くとお猿さんのような顔になって、字は縦横に伸びて変化させて書いて、『覚の心の中で何が起きているのか?』と不安になって…覚に『お願いだから普通に書いてちょうだい』って何度も頼みました」

はじめは両親も、先生も、文字や数字をアレンジして描く“くせ”を直そうと指導しましたが、直りませんでした。そのうち、養護学校内外から「不思議な字だけど、これはアートだ」「すごい子どもと出会った」と注目を浴びるようになりました。

眞喜子さんは、覚さんのことで褒められたのは絵日記以来2度目と感じ、心境の変化が生まれたということです。

母・小林眞喜子さん「半信半疑だったんだけど、作品に仕上げられるような子どもになれば良いな。これでいいのかなと思いました」

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